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食べないという選択

少し体が重い。理由は分かっているので調整しよう。

このところ子どもと私だけの食事が多くなってしまっている。

すこし食べすぎの感はあるものの 子どもだけ食べなさいというわけにもいかないので…ということ。

世の中全部”食べすぎ”なのだそうだ。

ものが溢れ 大人も子どもも 空腹ということがない。

(かたや今日食べるものもない人たちがいるというのに…)

健康ブームだとかで ”体にいい”となれば さらに「食べなくては」という気持ちがあおられ「食べなかった」ことが健康を損なうような気になり 満腹の体にさらに詰め込んでいる。

そうでなければ すきなものをすきなときにすきなだけ 勝手なものだ。

そんなときに たまたま図書館にあったこの本を読んで 彼が考えてしまうことになる。

それまでも いろいろ食に関する本は読んでいたが 医学書のように 勉強しなくてはという気持ちが大きかったのだと思う。

40歳からの元気食「何を食べないか」―10分間体内革命  

それまで 何を食べれば元気になれるのか。(もどれるのか)と考えていた彼にとっては衝撃であり 反省だったようである。

(今はもちろんやめた)煙草、お酒も人並みだし 家庭もあることだからそうそう悪い生活はしていないだろう。

体が悪くなったのも 仕事が忙しくなったこととそれにともなう人間関係、

そういえば最近PCやりすぎ、運動不足か…

なんて自分なりに納得し まずは休養と体力作りでもと考えていた彼にとってまったく考えていなかった”原因”が突然あらわれたのであるから。

昼食は弁当持参だったので”外食”という意識はまったくなく、それでいて

朝から晩まで日に何回も飲むコーヒー、さらに残業の空腹を紛らわす缶コーヒーに菓子パン、甘い菓子、それでも”きちんと”と夜中の食事。

自分の希望でしていたパン朝食、肉中心の食事。

それすべてが食べすぎであり胃を疲れさせさらに”冷やす” 

結果 体もそして”こころ”まで疲れさせてしまうというのだから。

”犯人”の姿が見えたことで もうひとつの霧も晴れたようである。

働きすぎなのか?こんなにやったのに=なんでみんなやってくれないんだ

どうして自分ばかりこうなるんだという疑問であり憤慨。

そんな考え方が少し変えてみれば

たしかに 立場的に人間関係も難しいし PCも多少人より多いかもしれない 不規則な生活は同じだし、(いや彼らのほうが 家庭のない分休日もかまわずもっと見た目”不健康な生活”かもしれない)

でも考えてみると彼らは”食べていない”のかもしれない。そして食べている自分が 食べることを心の豊かさであるように勘違いしていたのかもしれないと。

ちょっと荒療治だったかもしれないが 今までの自分の生活をそして他の人の見方を改めて振り返ることになったようだ。

そしてその流れから自然に彼も食養生やマクロビオティックなどの考え方を受け入れるようになる。(なにせ不調の”心当たり”がありすぎたので…)

すぐにすべて実践できるわけでないにしても、缶コーヒーをやめてお茶のポット、おやつ用に玄米のおにぎりを余分に、食欲がなければ少し量をひかえてからだの声に耳をすませる。

すっかり肉も乳製品も姿をみなくなったが そんなことを楽しんでいる風でもある。

食事というものは やはり自分の生活 考え方をうつしているのだと思うので、彼なりの”認知療法”だったのかもしれない。

少なくても彼は”食べなくてはいけない””(昔のように)食べるのだ””食べないことが悪くしている。”からやっと離れ ”(たくさん)たべなくてもいい”そのうえで 

必要のものだけ”選ぶ”という自由を得たようである。 

きっかけは彼のことではあったが 私のアトピーが良くなったのも 考えていけば

一人暮らしをすることで からだに必要な量だけ 取ることが出来たこと 

実家に帰ると悪化するのも 私に良かれという両親の思いだとしても ようするに”食べすぎ”

そういえば核家族だった我が家は昔から 肉 小麦 砂糖の多い家だった。(その分田舎なので野菜も豊富ではあったにしても)

子どもが生まれ 食事に気をつける 家族には食べさせるにしても なんとなく朝食を控えるとか 自分なりに”調整”できていたのかもしれない。

この正月はこれをふまえての里帰りだったので まったく悪化することもなく楽しく過ごすことができた。

(あいかわらず肉も菓子も勧めはするものの 彼のために食事に気をつけていることを伝えたので問題なく。

ただあちらの食生活にまで口は出せないので、娘としては まだまだ複雑)

自分から言わなければ 言っても あれほど ひどい肌だったなんて信じられないだろう。

不思議なことのようでもあり それでいてやっぱり パズルのピースがひとつづつはまっていくように だんだん絵が見えてきている気がする。

「病気になってよかった」とは良くなった人の話ではあるけれど

こんな私であったので 彼のことも自然に受け入れられたし 彼も病気をしたことで 私のこれまでを 少し感じられたようである。

だからまだ終わりではないけれど とりあえず「よかった」のだと思う。

  

 

  

 

 

  

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コメント

 「たべない」ってことって「選択」なんですね。食べることではなくて。
 動物って必要な分しか食べないし、必要な分しか殺さないですよね。なんで自然の一部である存在同士なのに、人間だけが好きなだけ食べるんだろう。迷った時は、自然はどうしてるかな、って考えるといいのかもしれないな、って思いました。

投稿: pafy | 2007/02/27 20:31

自然の一部ということほんとにそうです。
自分のあまりの小ささに情けなくなってしまったり、でももっと大きなものに包まれていることをあらためて実感したりもします。
”自然はどうしてるかな”いいですね。
 

投稿: kicco | 2007/02/27 20:48

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